まいでぃあ

私の大好きなバラや猫の徒然日記

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経過良好♪

義母が入院して次の土日に仙台に行きました。
私は義姉と交代してしばらく滞在です。

東北道はガラガラでした。
宇都宮あたりを走っている時にラジオから地震速報がでました。
今走っているあたりが震源地で震度5だとか。
!!!???
まったく分かりませんでした。高速走行中ってこんなにわからないものなのかな・・・・

次のSAで休憩するつもりだったので入ってみると、レストランがざわざわしています。
今の地震でガスが使えなくなって、カレーしかできません、とのこと。
レストランはかなり揺れたようなんですが、私たちのように走行していた人たちは全然ピンと来ていないようでした。。。
携帯を見ると何件も着信が・・・
義姉や義兄から心配して何度も連絡してくれていたようです。
その後 高速は通行止めになってしまいました。
ただ、今 走行している車はそのまま走り続けていいとの事だったのでとにかくよかった。

ただでさえ空いている東北道が 通行止めによって合流してくる車がないものだからさらにガラガラに・・・


なんとか病院にたどりつくと義母は、1週間前とは見違えるほど元気になっていました。
病院側も手術の次の日から がんがん歩かせていたようですし、熱が下がれば体がずいぶん楽になったようです。
もちろん傷痕は痛いのですが、それは仕方ありません。。。
当人も入院生活は落ち着かなくて 早く退院したかったようです。
翌日が退院日、いったん帰る義姉と引き継ぎを済ませて家に帰りました。


日曜日の朝、病院に行く前に荒浜に行ってきました。
車でたった2分、2分走っただけで景色が一変しました。信号3個くらいでしょうか。
東北道からのびている 東部道路 これが命運をわけました。
東部道路は橋脚ではなく、5mの盛り土の上を走っています。これが最後の砦となったのです。

東部道路の内側と外側でこんなにも違うものなの??

目の前にはテレビでみてはいたあの光景。。。。
実際にこの目で見るのとは大違いです。見渡す限りがれきの山。
ぺしゃんこになった車、ひっくり返った家や根こそぎ流された防風林の大木
震災から1カ月以上たっているのに まだ探し物をしている人。。。。
胸がしめつけられました。。。
言葉がでません。。。。


気持ちが重いままでしたが、病院に行くとすっかり身支度を終えた義母が待っていました。
さて、私は今自分にできる目の前のことをしなくっちゃ。
仙台はちょうど桜が満開で 桜祭りも行われていて遠回りして公園を見ながら帰りました。
今年はなんとも微妙な気持ちで桜をみてばかり・・・(>_<)
帰ってお茶を入れて・・・・ホッと一息。
病院は地震でボイラーが壊れていたので、熱いお茶は飲めなかったそうです。

やはり家に帰れたのが嬉しかったんでしょうね、あれこれやりたがったのですが
そこはとりあえず我慢してくださいね、と。
とにかく私がいる、この2、3日はじっとしててもらわないと。。。。
諦めて 私がいる間はお台所はやらないようにしてもらいました。
2階もメチャメチャなままですが、GWに片付けに戻るので、絶対に上にあがらないように言い含めて。。。

昨日 義母と話した時に一番近くの御用達のスーパーがやっと営業を再開したとかで喜んでいました。
すっかり元気を取り戻し、仕切り炸裂 いつものお義母さんでした。

あ~ もう少し殊勝なお義母さんをみていたかったけど・・・・・・(笑)


あっという間で、怒涛の4月でした。

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一難去ってまた一難

さて 話をまた仙台に戻します。

震災の当日 3月11日は金曜でしたよね。
翌日義兄が春休みで帰省中だった大学生の甥っ子と仙台に向かってくれました。

こちらに入っている情報では仙台市若林区役所が浸水したと聞いていたので、区役所への通り道である実家の浸水は免れないと思って、義兄たちは完全装備し、避難所を一つ一つ回る覚悟で向かったそうです。
区役所の浸水というのは 裏手にある用水路が逆流し噴き出したものだと後からわかりました。

義母に会えたらそのまま秋田の自宅へ連れて帰るつもりでした。
ところが肝心の義母ときたら 人に頼るのが大嫌いな性格でたとえ長男のいうことでも頑として言うことを聞きません(^_^;)
運よく 上下水道は生きていました。
お米と灯油も買ったばかりだったし、常に冷蔵庫は満杯にしている人だったし 食糧庫もなんだかレトルトが沢山あって確かに一人だったら何ヶ月でも持ちそうな感じ・・・・

でも、いくらご近所仲良くたって、友達が沢山いたって、みんな自分のことで精いっぱいな時です。
余震もひどいし、電気もガスもない中どうやって暮すんだ!と説得してもやはり首を縦に振りません。
じゃあ 甥っ子を置いていくから、、、、携帯持っているし何かの時には連絡とりあえるから・・・・
と説得しても、2人だと燃料も食料も早くなくなるから、と・・・本当に頑固です。
結局 倒れた家具や力仕事を片付けると後は細かい片付けは女の仕事だからと 日曜に2人とも返されてしまいました(>_<)

本当に気丈な人です。 
でも私は内心 あの義母がおとなしく義兄の家に行くとなったら それこそヤバいと思っていたので
まずまずあの気力がある限り大丈夫だろうと思ったのです。

結局 電気と電話が復活したのは2週間以上たってからだったと思います。
電気がついたのを見た時はさすがに涙が出た。と言っていました。
ガスが復旧したのはそれからさらに1週間ほどしてからだったと思います。ガスの復旧は早いほうだったと思います。仙台市内でも1カ月以上たってもガスがつかないところがまだまだありましたから。。。

家の相棒は東北道が一般車両が通行可能になってからやっと現地に行くことができました。
それまでは自分の母校が避難所となっていて、テレビの中継を見たりすると本当にいたたまれなかったようです。現地に行く前の日に私はスーパーを梯子し、自宅と避難所への救援物資を車に積めるだけ買いました。

こちらでは割と早くスーパーに品物が戻ってきましたが、現地ではスーパー自体が物不足や壁や天井が落ちて休業中といったところが多く、なかなか生鮮食料品が入手できないとのことでした。
牛乳、卵はもちろん肉や野菜、チンするご飯、生米、果物 などを実家はもちろんお世話になったご近所さんや避難所に差し入れをすることができました。
震災後は避難所や一般の家庭にも燃料や食料を盗みに入るやからがいたそうで 一時期治安が悪くなっていました。

ライフラインが元に戻り生活も落ち着いてきたら4月7日の2回目の震度6です。
これは夜遅い時間でした。また震源地も内陸寄りだったので揺れが本震の時よりも大きかったそうです。
午前1時ごろ連絡が取れて義母の声を聞くことができました。
地震の翌日は私も実家から帰ってきたばかりで疲れていたし、洗濯と掃除だけして後はボクちんとだらだら過ごしていました。

夕方5時ごろ相棒から電話がかかってきて、一難去ってまた一難だ。と言われました。
どうしたの??ときくと、義母がこれから手術らしい・・・・とのこと。
!!?? どうやら胃に血が大量にたまっているのだそうで、緊急手術する、というのです。
仙台の親戚から相棒の携帯に電話があったというのです。

ぇえ~!!!!なんでなんで!?
詳しいことは開けてみないと分からないらしく・・・・
すぐに義姉に電話すると、今から向かう準備してるから。とのこと。
仙台につくころは手術も終わっているだろうからもっと詳しいこと分かると思うので待っててね、と言われました。
3日前に私の母の手術が終わってホッとしていたのに、なんでこんなことになっちゃうの??

夜になって連絡が入りました。
詳しい原因は分からないけれど、昨夜の地震の時にお腹を強くぶつけて出血したのでは?という見解でした。内臓に腫瘍らしきものは認められなかったそうです。1,100ccもの血と塊を取ったそうです。
皆 ガンではないかと心配していたので、ホッとしました。
1週間ほどの入院で抜糸が済めば退院できるということでした。
翌土日、相棒が仙台に向かいました。
私は実家のほうがまだ安定していないので こちらに待機ということで相棒だけ行ってもらいました。

とにかく こんなことって・・・・

まぁ どちらも命に別状がなくて本当によかったです。

最初の週を義姉が付き添ってくれて、私は退院する週からお手伝いに向かいました。
私にとっては震災後初めての仙台入りです。
ご近所さんからの震災の時の 生々しい話や目を覆いたくなるような荒浜地区の光景に打ちのめされました。。。。。




震災関連の記事は読んでいて 決して気持ちの明るくなるものではありませんが、文字にすることで自分の気持ちの整理もかねていますのでご了承くださいませ。

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母の入院

今日 久しぶりに園芸店に行って花苗やシソやバジル等を買ってきました。
球根もパンジーも植えていなかったのでさすがにさみしくて。。。。


3月の終わり頃に私の父から電話がかかってきました。
父からの電話ということは良いことではありません。そういえば少し前に姉と話した時に
春休みだから名古屋に甥っ子を行かせようとしたところ、母から体調がいまいちだから・・・・
と拒否られた。。。という話を聞いていました。
これはなんかあるな。。。と。。。

聞くと、数日前からなんとなく手足がしびれてはいたそうなんだけど、急に手足が動かなくなってしまったとのこと。すぐにかかりつけの先生のところに行ったら 脳梗塞とかではなさそうな・・・・というので
大きな病院への紹介状を書いてもらって受診したら、やはり脳には異常はみとめられず、、、
整形へ回され検査すると、頚椎の変形で神経がかなり圧迫されていると原因が分かりました。

何もしなければ寝たきりまっしぐらなので 手術を受けることに。
ただ、手術とか麻酔とかのリスクの説明でちょっと父は不安になっていました。
病院の先生は大丈夫ですとか、絶対に言ってくれませんしね・・・
当事者の母は一度死にかけてますから、原因がわかってかえって開き直ったというか・・・(-_-;)

即入院で手術の準備に入りました。糖尿病をわずらっているので血糖値の調整をしないとオペできないとかで入院から数日後の手術となりました。
まずは姉が土日で帰省してくれ、私は4/5の手術に立ち会う日程で帰省しました。


手術は午前9時からでしたので8時ごろ病室に行くと、母は「こんなんなっちゃったわ~」と明るい感じ。
まぁ 命うんぬん・・・ということではないし、私たちもどこか楽観的でした。
3時間の手術が終わって集中治療室へ会いに行くと、まだ麻酔も完全にさめていないようで朦朧としているし
気分も悪そうでした。
看護士さんに話はできそうにないのでまた3時間後の面会時間に来てくださいと追い出されてしまいました。
仕方なく、父と食欲ないけどお昼ごはんでも食べに出よう、と病院を出ました。

面会時間まで時間があったので近くの小牧城へ・・・
桜が満開でお花見している人たちが沢山いました。
私たちもベンチでぼーっとしながらこれからのことを話し合いました。

細くなってしまった神経は圧迫を取り除いてもすぐに元に戻るわけではないので、今の病院を2、3週間したら転院して3か月ほどリハビリ病院に入院しなければならないとのこと。
まぁ父は洗濯は趣味だし、神経質なたちなので部屋はいつもきれいにしているし、
食事だけ作れないけど、一人分なら買ってきた方が経済的だから 父の心配はなさそうです。

DSC00231.jpg


母は2日後に一般病棟に移ることができました。
手も手術前はスプーンを持つことも、ボタンを留めることもできなかったのにグーパーグーパー出来ています。とりあえず悪くはなってないよね。後はリハビリを辛抱強くするだけ。

7日の夜に自宅に戻ってきました。
実家では外出から帰っても出迎えてくれるボクちんもいないし、食事の支度していても邪魔してくるボクちんがいないし、、、でかなりさみしかったのです。
久しぶりのもふりに癒されました(^_^)

その日の夜にまた仙台で最大余震震度6が・・・・
今回は午前を回ってでしたが仙台と連絡が取れて無事を確認できていました。



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元気です(^^ゞ

東日本大震災により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興を願っております。


今年は本当にいろんなことがありました。
怒涛の年末年始が終わって、ちょっと一息・・・・3月に入ってだんだん日も長くなってきたなぁ・・
と思っていたら大地震。。。

あの時私はリビングにいました。スーパーにでも行こうと身支度していた時です。
テレビに地震速報が出ました。
えっ!? 仙台で震度6!!!??? お義母さん大丈夫かなぁ・・・・
と思った次の瞬間 こちらでも揺れが始まりました。
そこからが長かった! 食器棚の扉があいてしまい、4分間の間ずっと棚から皿やグラスが落ち続け
私は目の前のテレビに必死でしがみついていました。
マンションの重い窓も開くし ベランダの枕木もすべて倒れ、やっと揺れがおさまった時には
生まれて初めて腰を抜かしていました。手も勝手に震えてます。。。(^_^;)

すぐに相棒から大丈夫かメールが届き、震える手で無事を伝え、仙台に電話するも通じず・・・
秋田の義兄一家にはメールですぐに無事を確認できましたが、東北は停電してしまったので
津波等のテレビからの情報がまったく入ってこないとのこと。
また早い段階で仙台の荒浜地区は津波で壊滅状態で犠牲者もかなり多いとの情報が。。。

荒浜って隣町じゃん!!!
相棒の実家は仙台、親戚も仙台と岩手に集中しています。岩手の親戚は内陸なので津波の心配はないとすぐに確認できたのですが、とにかく実家は海から数キロのところなので、浸水は覚悟していました。

翌朝、義兄から電話があり、これから仙台に行ってくる。と・・
相棒も会社に足止めでしたが午後やっと帰宅。
それから義兄から連絡があるまで心配しましたが、家も義母も無事でした。

あの日義母は家にいたそうです。
地震の後、大津波警報がでているとのアナウンスが流れて近所のマンションに登ったそうです。
雪が降っていて大変寒かったと。。。。
それから避難所となった小学校へ行ったらしいのですが、荒浜地区からの避難してきた方々でごった返していて居場所がないと思って家に戻ってきてしまったところを、民生委員の方が訪ねてきて やはり停電の中危ないからと避難を促され、近所の公民館で一晩過ごしたらしいです。

朝になってやはり家が気になる人達が帰宅し始め、義母も帰ってきたそうです。
ぐちゃぐちゃになった部屋を片付けていたら
そこへ、長靴にスコップもって義兄と甥っ子がやってきて義母の無事を確認。
甥っ子がその時の家の様子を沢山写真に撮っていてこれが後々地震保険で大いに役立ったのでした。


携帯の電波も街中まで出ないとアンテナが立たなかったらしく連絡があったのは夜になってからでしたが
とりあえず、元気な義母の声を聞いて安心したのでした。


やばかったのは4月の7日の最大余震の時だったのですが、4月はあまりにも大変だったのでまた次回に。。。。

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